牧野雅彦「羽入-折原論争への応答」
以下の文章は、牧野雅彦様から寄せられた応答です。
2004.1.30.
(2004.2.7.revised)
橋本努様
「羽入−折原論争」(羽入氏の応答がまだなされておりませんので、そのような呼称が適当かどうかは議論のあるところですが、とりあえず羽入辰郎氏の著書とそれに対する折原浩氏の批判書をめぐって今後行なわれるであろう議論と理解しておきます)に「参入」して意見を述べることは、さしあたりは控えておきたい、というのが私のいまの考えです。
というのもご承知のとおり私は、折原氏の批判書の草稿をまえもって読ませていただいて、いくつかの意見を折原氏と私的に交わしており、そのことが折原氏の批判書のあとがきで記されている関係上、かたちの上ではすでに折原氏の側に位置することになっているからです。ですからここで私が「羽入−折原論争」について何か発言するならば、それはその内容の如何にかかわらず論争の一方の当事者に与するとの印象をもたれるおそれがあります。もちろん折原氏と私との間に見解の相違がないわけではありませんが、すでに折原氏の批判書は私の意見や疑問に対する応答も含めて書かれているのであるから、それに対して新たな論点を提示することなしに同じ議論を蒸し返すことは折原氏に対してもフェアではないし、またおそらく羽入氏がされるであろう反論の論点を先取りするかたちになるのは避けたい、と考えているからです。
とはいえ、私と折原氏との間で意見が一致しなかったつぎの点についてあらかじめ明らかにしておくことは、今後予想される論争が学問的に生産的なものとなるためにも重要なことと考えます。争点となったのは他でもない、ルターの聖書翻訳をめぐってかかれた「プロテスタンティズム」論文の脚註をどう読解するかです。
とりあえず未来社版安藤編/梶山訳で引用しておくと、143頁後ろから6行から5行(大塚久雄訳、岩波文庫では106頁)の部分になります。
「しかるにルッターは、各自その現在の身分に止まれとの、終末論に基づく勧告に関して、klesisを>Beruf<と翻訳した後、旧約外典を翻訳するに当たって、各自その職業に止まるを可とするとの、イエス・シラクの伝統主義的反貨殖主義にもとづく勧告に関しても、単に両者の実質的類似(sachliche Aehnlichkeit)のみからponosを>Beruf<と翻訳したのである」
この「klesisを>Beruf<と翻訳した」の一句をどう理解するか、私は当該註のすぐ前(安藤編/梶山訳142頁)で示されている『コリント前書』第七章のことを指していると解するのに対して、折原氏はここはウェーバーがとくに『コリント前書』第七章と特定していないのであるから、当該註のはじめの方で提示しているBerufの二つの用例のうちの前者、『エフェソ』1の18、4の1および4、『テサロニケ後書』1の11、『へブル』3の1、『ペテロ後書』1の10などの事例(安藤編/梶山訳139頁)の方を指すと解釈されます。その理由についてすでに折原氏は批判書133頁以下の註で詳しく論じられております。
私には件の註全体の文脈、梶山訳/安藤編の頁でいうと139頁で二つの用例、「コリント前書1の26 エペソ1の18、4の1/6、テサロニケ後書1の11、へブル3の1、ペテロ後書1の10など」などのいわゆる「神の召し」の事例と、「イエス・シラク(ベン・シラ)」の「汝の職業にとどまれ」の事例をあげ、この二つの異なる用例を結ぶ事例として141頁以下で「コリント前書七章」を「現在のルター版」で逐語的に引用し、一五二三年にはルターはなお二〇節をRufと訳していることを指摘した後に、件の個所がおかれている――しかも改定時にはだめをおすように「前述のごとく、コリント前書7の17のklesisは今日の意味での『職業』を指すものでは決してない」とつけ加えている――という文脈からみれば、『コリント前書』第七章と理解するのが素直な解釈であるように思われます。
ただし、私のような解釈をとれば、当該註でウェーバーが用いている『コリント前書』第七章が「現代版」であるということをどう説明するのか、という難点に突き当たることになります。「現代版」ルター聖書がルター本人の訳ではなかった、少なくとも当該個所をルターはBerufと訳していなかったことは羽入氏が明らかにされました(この事実それ自体についてはまだどなたも反論されていないように思います)。それではなぜウェーバーは「現代版」で「コリント前書」を用いたのでしょうか? ウェーバーは「現代版」がルター本人の訳でないことを知らずに「間違って」用いたのか、知っていたけれども何か別の理由があったのか(そうするだけの理由があった、というのが折原氏の理解でしょう)。ウェーバーも一人の人間ですから、なにかの「錯誤」があってルター本人の訳と取り違えるということもありうることだと私は考えております。ただ、そうであればなぜ改訂の際に訂正しなかったのか、羽入氏のいわれるように、隠蔽の意図があった、とまでは私は思いませんが、それでは訂正しネかった事実をどう説明したらいいのか、いまのところ私は自分自身と他人を納得させることのできる説明を見いだすことができません。というわけで折原氏に対してそれ以上の論点を提示できないままに、この点については「意見を留保」するかたちで終わっております。
たしかに折原氏の解釈は、そうした問題を回避する実に巧みな読み方だといえるでしょう。羽入書の論点はいくつかあげられますが、最大の論点はやはりルター訳聖書をめぐる論点――ウェーバーが『コリント前書』第七章の当該個所でルター訳でなく現行版を使っていた――であり、この点が折原氏のような読解によってクリアされれば羽入書の衝撃力は相当に減殺されることにもなるでしょうから。
ただ羽入氏の著書の評価をはなれてみると、わたし自身は、折原氏のような解釈は「プロテスタンティズムの倫理」論文当該註の読み方としてはすこし無理があるように思えてなりません。この点についてはこれまで「プロテスタンティズムの倫理」論文に関して研究されてきたウェーバー研究者やキリスト教関係の研究者の方々にも、当該個所をどう読まれてきたのか、ご意見をうかがいたいところです。
もちろん当該個所は論文の脚註の一部であり、そこから論文全体の論証の如何を云々することは直ちにはできないことはいうまでもありません。さらにウェーバーの宗教社会学、とくに後期の「世界宗教の経済倫理」にいたる展開をふまえた上で「プロテスタンティズムの倫理」論文を位置づけるてみるならば些末な一点ということになるかもしれません。ただ、これまで多くの人に読まれてきたはずのウェーバーのテキストについてさえ解釈の分かれるところがある、という事実を羽入・折原論争ははからずも明らかにしたと思います。今後論争に参入される方々が、この個所についてどういう理解をされているのか、この個所をどう読まれてきたのか、参入されるに当たってまずこの点を明らかにされることを願っております。
牧野雅彦